会長あいさつ

この全国医書同業会も2023年(令和5年)に130周年を迎えることができました。

これも偏に日本の医療・医学を支えてこられた関係執筆者・読者の皆様または医書の出版販売に携わってこられた先達の方々のおかげであり心から感謝申し上げる次第です。

現在から130年前と申しますと明治維新から26年しか経過していない時代であり、記録による伝聞は存在するもののそれ以外に現代人であります我々からは想像もつかない日常が送られていたかと思います。

いくつかの戦争、疫病の大流行、甚大な被害がもたらされた天災等の発生により国民生活の向上と低下が繰り返される中で連綿と医書の出版販売が続けられてきたことを思いますと感慨深い気持ちが込み上げてまいります。

130周年を迎えました現在は第二の産業革命とも言われるインターネットの発明と発展の真っただ中であり、我々の日常生活に多大な変化をもたらしております。

銀行手続きから鉄道の乗降、各種料金の支払い、税務申告、物販、行政手続き等々インターネットを通したサービスで日常が占められており、またこの先も日々オンラインサービスへの変更や新興が発生していく状況にあるかと思われます。

文字情報伝達の様式も「紙」での伝達のみではなく電子送信および電子ディスプレイへの投影も盛んに行われるように変化してまいりました。

読者皆様の購読嗜好も含めてその変化により出版物の出版・販売・流通も多大な影響を被っており出版業界全体を見回しても未だそれへの対応に苦慮している状態です。

当会も130周年を期に遅れ馳せながら機関誌や会員伝達方式等の電子化を行うこととなり、ウェブサイトを開設いたしました。

お忙しい中この準備作業に関わられた当会委員または役員の方々へ厚く御礼申し上げるとともに会員の皆様にはウェブサイトでの新たな活動等に関するアイディアを逐次ご提案いただければと存じます。

当会の過ごしてまいりました130年を想いますと先述の様に戦争、疫病、天災等を通じて幾つかの社会的変化が起こっていたことと想像いたしますが現代の医書に携わる我々もまさに大きな社会的変化の起きている中で生きているのではないかと想います。

先人の方々が幾つかの社会的変化を乗り越えてこの医書業界を繋げてきたのと同様、現代の我々も社会的変化を乗り越えて200年、300年先の医書業界の礎になれればと思います。

全国医書同業会会長

株式会社 日本医事新報社

代表取締役社長

梅澤俊彦

梅澤俊彦

130年の沿革

「医書同業会」の前身は 「医書組合」と呼ばれ、医書関係の出版と、新古の医書の販売にあたっていた医書籍店の集まりであることは今と同じである。

「医書同業会」の創立の時期は、明らかでなく二つの説があるようである。一つは明治 19年創立説であり、もう一つは明治26年創立説である。

明治19年説については、「日本科学技術史大系<24>医学Ⅰ」 の第7章医療産業と医学出版事業の伸張の項に概略が述べられている。

今ここにその一部を引用する。


“(幕末の) これら多数の出版業者の中でも、特に医書を主として取り扱う商人が現れる。

江戸では須原屋、 山城屋など、大阪では河内屋、平野屋、秋田屋などが古い。

明治にはいると、翻訳医書の出版が増加するが、これに対応して、丸善 (明治元年創業)、金原医籍店 (明治8年創業)、南江堂 (明治12年創業)、半田屋 (明治16年創業)などが現れる。

明治19年 (1886 年)には小柳津要人が筆頭になって医書組合ができたが、一般書の書籍組合に先だつこと3年である。

医書は法律書とともに購読者が固定しているため、ほとんど独占的に安定経営を続け、 医書組合の当初の構成員で今日まで続いているものも少なくない。“


次はもう一つの説である明治26年説 (一説では24年) について述べる。

創立の際の発起人は、朝香屋 大柴四郎 (神田鍛冶町)、英蘭堂 島村利助 (日本橋馬喰町)、金原寅作 (本郷湯島切通町)、南江堂 初代小立鉦四郎 (本郷湯島切通町)、半田屋 山口徳次郎 (本郷春木町)の5店であるが、これに吐鳳堂 田中増蔵が加っていたという記録もある。

初代組合長 (頭取) は朝香屋 大柴四郎で、創立当初より大正の初年まで引続いて就任されていた模様である。

また、創立時の副頭取は南江堂 小立鉦四郎 (初代)であった。しかし、朝香屋、英蘭堂、吐鳳堂の3店はすでに廃業して、今は組合名簿に名をとどめていない。


「東京書籍商組合50年誌」 (昭和12年5月刊) に傍系団体の簡単な記載があり、「医書組合」のその後のことが判るので引用しておく。

〝全国医書組合―この組合は明治26年(1893) 4月の創立で、単に医書組合と称していたが、区域を全国的に拡張したので昭和9年(1934年)に全国医書組合と改称した。

医学書の出版又は販売業者を以って組織し、定価販売励行の急先鋒である。現在 (昭和12年) 組合員105人″とある。もって、組合(医書同業会)の進展の一斑の模様が判る。

なお、〝定価販売励行の急先鋒″とは明治以来その頃まで、東京の一部を除き大部分の小売店と地方小売店などでは定価より何銭か、ときには何厘まで値引きして販売しており、お客もまた、一応の値引きを要求していた旧慣を排除するために組合が努力していたことを意味する。

この二つの記述の若干の食い違いはあるがいずれにしても、医書を取り扱う業者は、他の書籍組合に一歩先んじて明治20年(1887年) 前後より組合を作り相互の親睦と発展をはかっていたわけである。

明治後期と大正、昭和戦前時代については、記録や資料があまり残っていないので詳細な記述をすることはできないが、当時についての伝聞をお持ちの方や、記憶のある方のご協力を得て、以下若干の経過を述べることとする。

大正後期より昭和戦前時代の「医書組合」は、あまり活発な活動をしなかったらしい。

言いかえれば、医書の業界には、きわめて安定した平和な時代であったということが出来よう。

この時代は役員の交代はあまりなく、 組合長の小立鉦四郎氏があたり、副組合長の今井勘太郎氏 (克誠堂) と会計担当の浅井光之助氏 (文光堂) が補佐をしていたと聞く。

その頃は年1回総会と称して温泉地で懇親会が開かれるのが唯一の事業らしい事業であったようである。

ただこの時代に特記すべきことは、「医書組合」員と非組合員との間には取引上の差別があったということである。

組合員である出版社が組合員に卸す場合は通常の9掛(のちに8.8掛になったという)であったが、非組合員には9.5掛であったということである。

全国医書組合は昭和18年(1943年)時局にもとづく解散をした。

戦後の再建は昭和22 年(1947年)4月、東京近辺の、医・歯・薬・獣医書を出版または販売する業者で「医書同業会」が設けられた。

金原作輔氏たちが主たる指導をとった。戦災後間もない時期の用紙配給時代の難路を乗り切るためにも大いに活躍した。

他の同業緒団体に先立っての設立であったのである。

この時も発起人の中に明治26年(または24年)以来の南江堂と金原出版(当時日本医書出版) が入っていることは注目すべきである。

なお、戦後の初代会長は小立鉦四郎氏であり、 後に金原作輔氏と交代した。副会長は約12年間にわたり稲垣近義氏であった。


さて、昭和22年(1947年) 4月再出発した「医書同業会」の会員数は、出版、取次、小売の三者を併せて約35社であった。

後次第に会員は増加し、昭和34年(1959年) には 60社になっている。

再出発より昭和30年(1955年)頃にいたる約8年間は、南江堂の山﨑祐次郎氏が事務局長として会の一切の世話をしていた。

年3回の懇親旅行会が行われ、会の目的である会員相互の親睦と公正な業界の発展および連絡の実をあげたわけである。

また、この他にも外部より講師を招いての勉強会や、会員相互の研究会なども行われている。

次いで、昭和36年(1961年)に初めて医学書総目録を発行し、会員各社の医学書販売のための便を図った。

医学書総目録はその後日本医書出版協会より発行されるようになった。

昭和41年(1966年) にいたり、総会で、今まで東京近辺の会員で構成されていた「医書同業会」を全国的な組織に拡大することが決定された。

そして、会員数は出版 25社、取次 13 社、小売 48社、計86社となった。ここで 「医書同業会」は飛躍的発展を遂げたことになる。

昭和47年(1972年) に全国医書同業会80周年誌、 昭和57年 (1982年) 90周年誌が作成された。

昭和48年(1973年)ごろには、 医学、歯学、薬学の学校が併せて122校あり、その学生と医師、歯科医師を併せると20余万人に増大した。

医書同業会はこうした情勢をふまえて日本医師会会長 武見太郎、 国立国会図書館長 宮坂完孝、丸善株式会社会長 司 忠、日本製紙連合会会長 金子佐一郎の諸氏を相談役に迎えて、組織の拡充強化を図った。

昭和48年(1973年)には、書店社員の医学書販売担当者の養成を目的として、第1回医学書専門販売員研修会を開催した。

昭和50年(1975年) 11月に、機関誌として「医書界」を創刊した。

これは出版、取次、小売等の業界の情報交換と、生産、流通、販売等の問題についての意見の交換、また会員の誌上交歓の場として相互の親睦を図ることを目的としたものである。研修会とともに本会の重要な事業の一翼を担っている。

かくして組織も全国的に広がり、内容も充実してきたので昭和55年 (1980年) 6月総会において、名称を全国医書同業会と改めた。

昭和54年(1979年) からは、総会開催時の研修会と秋の単独開催の研修会とが年2回開催されるようになり、特に秋の研修会は組織が全国的に広がったことで地方別ブロックに分けて行われるようになった。

昭和57年(1982年)5月には日本医書出版協会事務所が独立移転し、湯島4丁目SYビルの一室が単独の全国医書同業会事務所となる。

昭和59年(1984年)、委員会制度を発足させた。

総務委員会、広報委員会、研修委員会、OA委員会が設立され、その後のコピー問題、大型間接税問題に対応した。

平成24年 (2012年) 現在では総務委員会、広報委員会、研修委員会の3委員会で構成されている。

平成3年(1991年)には創立100周年を迎え、同年に記念誌が発行されている。

平成8年(1996年) に事務所を本郷近江屋第二ビルに移転。

平成12年(2000年)第48回研修会から秋開催の研修会は参加人数の増大と交通網の発達にともない、全国からの集合立地として最適な関東首都圏において全国大会的に開催されるようになった。

平成20年(2008年)には本郷ブルービルディングの医書出版協会事務所内に移転。

平成23年(2011年) 3月11日東日本大震災が発生、東北から関東の数カ所にかけて甚大な被害が発生する。

特に巨大津波による被害が著しく被災地では死傷者が日本の災害史上類を見ない数に登った。

この際福島県内の原子力発電所 (福島第一原発)が損壊し、この影響で被災地以外でも電力・飲料水等の物資が逼迫し、放射能汚染の懸念も生じた。

全国医書同業会会員内でも津波による店舗の直接被害に遭った書店や流通網の寸断により影響を被った取次会社、書店が存在した。

また出版界全体に於いても膨大な量の流通在庫が津波による被害を受けた。

この災害により、この年の全国医書同業会総会は東京学士会館に於いて総会の議事のみが行われた。

また地震の影響での日本医書出版協会の事務所移転に伴い東京都本郷のKSビルに事務所を7月に移転した。

平成24年(2012年)、翌年に120周年を迎えるにあたり、総務委員長管轄にて120周年記念誌作成特別委員会が発足。

この時点で「医書界」の発行号数は143号、研修会の開催回数は71回を数える。会員は出版社53社、取次会社6社、書店62社、合計 121 社である。

歴代会長を努められた方は、朝香屋 大柴四郎、南江堂 小立鉦四郎 (初代)、南江堂 小立鉦四郎(二代目)、金原出版 金原作輔、医学書院 金原一郎、金原出版 金原四郎、医歯薬出版 今田見信、南江堂 小立正彦、金原出版 金原秀雄、医学書院 椿 孝雄、 医学書院 金原 優、医歯薬出版 三浦裕士、文光堂 浅井宏祐、医歯薬出版 藤田勝治、南江堂 本郷允彦の諸氏で、平成22年より医歯薬出版 大畑秀穂氏が就任している。

「全国医書同業会120周年記念誌」

2013年1月発行(会長:大畑秀穂、総務委員長:梅澤俊彦、120周年記念誌特別委員会:河野正彦、清水 豊、児島 誠、青木伸行)より上記を引用

以上が120周年記念誌に掲載された全国医書同業会の黎明期からの成り立ちである。

歴史ある当会の流れを実に詳細に記載してあり、敬意をもって引用させていただいた。

120周年である2012年以降の当会の動きとして、以下に追記する。

2013年 梅澤俊彦(日本医事新報社)が会長に就任し、130周年を迎える現在まで10年間会長を務めている。

2016年 日本医書出版協会の事務所を離れ、現在の文京区湯島のルネ湯島へ新規移転した。

2020年より、新型コロナウイルス感染症蔓延に伴い、日本のみならず、世界全体で行動が制限された。

当会においても総会、研修会、役員会、各委員会、新年互例会などが中止・延期となった時期もあったが今回の感染症蔓延により逆に加速した感のある急速に進む電子化、Web技術の進化など時代の新しい潮流に対応し当会でも総務委員会、研修委員会、広報委員会にて柔軟にスタイルを変化させながら現在まで会の運営を行っている。

2023年130周年を迎える段階にて、会員は出版社43社、取次会社2社、書店51社である。

一刻も早い感染症の終息を祈るばかりである。

全国医書130周年記念事業委員会

末定広光、福村直樹、金子浩平、鈴木由子